Panel Commentary

展示パネル補足解説

監修:芝浦工業大学名誉教授 南一誠

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吉田鉄郎没後70年企画準備委員会

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共同代表 南一誠(芝浦工業大学 名誉教授)、山田正彦(山田家第11代当主、工学博士)、村田一也(石川工業高等専門学校建築学科 教授)

委員(あいうえお順) 飯野美代子(計画創造Enkel 建築設計、富山県建築士会 常務理事)、伊藤信治(日本郵政建築 建築設計部 担当部長)、大石弘(NTTファシリティーズ都市・建築設計部 企画推進部門 担当部長)、観音克平(郵政省大臣官房建築部OB)、栗山雅明(富山県立南砺福野高等学校 同窓会長)、玄田悠大(DOCOMOMO Japan 理事・事務局長、玉川大学リベラルアーツ学部 専任講師)、後藤治(工学院大学 名誉教授、富山県文化財保護審議委員、住宅遺産トラスト代表理事)、後藤和弘(NTTファシリティーズ サービスイノベーション部長)、高木愛子(谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 専門員)、田所辰之助(日本大学理工学部建築学科 教授)、田村誠邦(アークブレイン代表取締役、住宅遺産トラスト副代表理事)、堀田渡(NTTファシリティーズサービスイノベーション部 知的財産室)

吉田鉄郎による東京中央郵便局のスケッチ
吉田鉄郎による東京中央郵便局のスケッチ 所蔵:NTTファシリティーズ
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建築家・吉田鉄郎

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1-1.建築家・吉田鉄郎

バッハを愛した吉田は、「ちょっとでも動かしたら全体がくずれてしまうといったような究極的な調和を保ちながら、がっちりと組合わされ、しかも淡々と流れていくような気がする。構造的な美しさとでもいえないものかしら……。(中略)あっといわせるようなものではなく、きくものの心にしずかに、またふかくしみこんでくる類のもの。建築もやはりこうこなくては……と、つくづくおもう」と述べた。

出典:建築雑誌、1952年8月号より

36歳ごろの吉田鉄郎
36歳ごろの吉田鉄郎(1930年) 所蔵:NTTファシリティーズ
製図中の吉田鉄郎
製図中の吉田鉄郎 所蔵:NTTファシリティーズ

1-2.建築家・吉田鉄郎

建築はよく、その作者の人柄を表すと言われる。吉田と同じく逓信省に勤務した経験がある故内田祥哉東京大学名誉教授はとにかく真面目で誠実な人であったと述べている。吉田は退官後も嘱託として時々、逓信省を訪れ、自身が設計した建物の追加工事の打ち合わせや、後進の指導に当たっていた。若い頃に結核を患ったためか、衛生面に神経質だったようで、宴会などでは料理に手を付けなかったと伝えられる。余計な装飾を排し、「清純な建築」を目指した吉田は、生涯、真っすぐに建築だけを追い求めていたのであろう。

吉田の日本大学時代の教え子である故矢作英雄氏からお伺いした話によると、吉田は亡くなる1日前、荻窪の自宅で「明日は人生の終わりだ。日本中に平凡な建築をいっぱい建てました」と奥様に語っている。「平凡な建物」というのは、吉田らしい謙虚な表現であるが、筆者は建築の真実とは何か、究極の建築表現とは何かを追い求めた結果として導き出された「普遍性ある建築」と理解できる。

吉田は、終戦1年前の昭和19(1944)年3月に逓信省を退官し、一旦、富山県の戸出に戻っていたが、昭和21(1946)年5月、日本大学教授となり、病に倒れるまで4年近く、後進の教育に情熱を傾けた。また、堪能な語学力を活かしてドイツ語で『日本の住宅』、『日本の建築』、『日本の庭園』を出版し、日本建築、日本文化を広く海外に紹介したことも有名で、昭和27年度日本建築学会賞が授与されている。晩年は脳腫瘍を患いながらも口述筆記で上記の図書などを纏め上げ、昭和31(1956)年9月8日、東京荻窪の自宅で亡くなった。

福野が生んだモダニズム建築の原点 東京中央郵便局と山田家住宅洋館、南一誠、富山県人 2026年5月号、通巻1351号、pp.28-29

パスポート写真に写る吉田鉄郎
写真1-2 パスポート写真に写る吉田鉄郎 所蔵:NTTファシリティーズ

1-3.著書、訳書

書名・内容
1930年(昭5) 『世界の現代建築』(編、洪洋社)
1931年(昭6) 『郵便局・電信中継所及電気試験所』(著、洪洋社)
『新日本住宅図集』(著、洪洋社)
1935年(昭10) 『DAS JAPANISCHE WOHNHAUS(日本の住宅)』(著、ベルリン・ヴァスムート社)
1938年(昭13) 『放送会館建築』(著、新建築社)
1946年(昭21) 『日本の建築(ブルーノ・タウト著作集2)』(訳、育生社)
1948年(昭23) 『日本の居住文化(ブルーノ・タウト著作集3)』(訳、育生社)
1949年(昭24) 『日本の家屋と生活』(共訳、B.タウト著、雄鶏社)
1952年(昭27) 『建築と芸術』(訳、B.タウト著、雄鶏社)
『JAPANISCHE ARCHITEKTUR(日本の建築)』(著、チュービンゲン・ヴァスムート社)
1954年(昭29) 『DAS JAPANISCHE WOHNHAUS』(著、チュービンゲン・ヴァスムート社)
1955年(昭30) 『The Japanese House and Garden(日本の住宅と庭園)』(著、ロンドン・アーキテクチュラルプレス社、ニューヨーク・プレーガー社)
1957年(昭32) 『スウェーデンの建築家』(著、彰国社)
『The Japanese Garden(日本の庭園)』(著、ロンドン・アーキテクチュラルプレス社、ニューヨーク・プレーガー社)
『DER JAPANISCHE GARTEN(日本の庭園)』(著、チュービンゲン・ヴァスムート社)
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1920~30年代の国内外のモダニズム建築の動向、社会情勢

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2-1.1920~30年代の国内外のモダニズム建築の動向、社会情勢

吉田鉄郎が逓信省経理局営繕課勤務に奉職したのは大正8(1919)年である。当時、ヨーロッパでは第一次世界大戦が終わり、スペイン風邪も収束して新しい時代を迎えていた。建築分野では、ドイツのワイマールにバウハウスが建設されるなど、モダニズム建築の黎明期であった。世界的な建築の変化の中で、当時の日本の建築家たちも進むべき道を模索した。吉田鉄郎は住宅が日本建築の基礎をつくっていると考え、日本の伝統を現代の生活に生かし、自然環境を重視した建築を数多く設計した。

吉田が設計を担当した東京、大阪中央郵便局は、近代化した日本において、真に日本的なものを表現した最初の現代建築であると評価されている。東京中央郵便局は昭和6(1931)年、大阪中央郵便局は昭和14(1939)年に竣工したが、同時期に建設された逓信省簡易保険局(1929年)、逓信省貯金局(1930年)、旧文部省庁舎(1933年)などの官庁建築はすべて様式建築であった。国際的に見ても、近代建築の巨匠となるグロピウスがバウハウス(1926年)を、ル・コルビュジエがスイス学生会館(1930年)を造った時代で、世界中の建築家がモダニズム建築が進むべき方向を模索していた時期である。その中で、日本建築、日本文化の深い理解の上に立ち、吉田鉄郎は日本における近代建築のあり方を、世界に先駆けて、東京中央郵便局の設計において示したのである。

東京中央郵便局の無駄を排した洗練された構造体の表現はその後、逓信建築、郵政建築、電電建築の設計理念の基盤となり、丹下健三が設計した香川県庁舎などの庁舎建築にも大きな影響を与えたとされている。部分と全体の究極的な調和を目指す設計手法と、隅々まで高い完成度を有した建築をつくる姿勢は、その後、逓信建築、郵政建築の真髄となり、小坂秀雄、薬師寺厚、内田祥哉など日本を代表する建築家に継承されていった。

1931年 東京中央郵便局
写真2-1-1 1931 東京中央郵便局 所蔵:NTTファシリティーズ
1939年 大阪中央郵便局
写真2-1-2 1939 大阪中央郵便局 所蔵:NTTファシリティーズ

2-2.モダニズム建築の動向 -吉田鉄郎の業績の背景-

今から約100年前の20世紀初頭、欧州でモダニズム建築が始まった。第一次世界大戦が終わった1920年代、戦間期と呼ばれる時期である。モダニズム建築は、19世紀までの様式建築とは異なり、合理的、機能的に建築を計画する手法であり、鉄、コンクリート、ガラスなどの工業生産による材料により構成される。その代表的な作品としてワルター・グロピウスによるバウハウス校舎(1926年)やル・コルビュジエのサヴォア邸(1931年)などがある。日本の建築界においても、いち早く若い建築家たちがその動きを学び、自分たちの手法として取り入れた。堀口捨己や山田守らが1920年に立ち上げた「分離派建築会」はその一つである。

モダニズム建築は第一次世界大戦(1914-18年)、ロシア革命(1917年)、ドイツ革命(1918-19年)、スペイン風邪(1918-20年)、世界恐慌(1929年)など、大きな社会的危機が発生した変革の時代に生まれ、育ったものである。わが国では関東大震災(1923年)も発生し、その復旧・復興事業のため困窮を極めた時代である。厳しい社会情勢ではありながら、建築界では近代建築国際会議(1928‐1959年)が開かれ、ニューヨークの近代美術館では近代建築展「モダン・アーキテクチュア:インターナショナル展覧会」(1932年)が企画されるなど、その後の建築界の流れを決定付ける活発な活動が展開された。

1920年から30年にかけて、わが国の若い建築家たちの中に、欧州を視察する者、留学する者が続いた。ある者は国や軍からの出張として、ある者は巨額の私費を投じて、およそ1年もの時間を費やして渡航した。当時も専門誌を通して欧州の建築界の最新情報が得られていたが、同時代の建築家に直接会い、その作品を現地で視察するため、高い志を持った若き建築家たちが海を渡った。1931年、吉田鉄郎が37歳の時、逓信省から欧米出張の機会を与えられた。帰国後、彼ら彼女らは、日本の建築界に新しい流れを形成することに貢献した。

ブレーメン号に乗船する吉田鉄郎
写真2-2 ブレーメン号に乗船する吉田鉄郎 所蔵:NTTファシリティーズ

2-3.昭和十年代の建築界 生田勉

・・・・私が入った昭和十一年の五月、彼(立原道造)が3年生のときに、赤門近くのレストランで木葉会主催の建築家を囲む会があったんです。その会のことが「これと同じの感銘を先夜、座談会で土浦氏にも吉田氏にも受けた。何でもないことを語りながら、芸術人のはげしい高い精神が閃めいていた」と書いていますね。これはその時の座談会のことで、私も出ましたけれども、岸田先生が司会で吉田鉄郎、土浦亀城、市浦健、そのほか二、三の著名な建築家が出席されました。そして、大げさに言えば涙が出るほど感銘深い会でした。土浦さんは、ちょうど九段の野々宮アパートができたころ、あるいは設計ができたころでしたし、そのほかたくさんよい住宅をすでに発表しておられました。

吉田鉄郎さんは、中央郵便局ができただいぶあとでもあるし、タウトに非常に高く評価されたり、優れた住宅をつくったこともあって、日本で第一級の建築家と思われていたし、簡単にいえば機能主義なんでしょうけれども、でも彼の著書を見ると、彼はどのような建築のよさも取り上げるという非常に優れた芸術家だということがわかるんです。・・・・・

吉田さんの中央郵便局、それから山田さんの逓信病院にきて、ほとんど日本の建築界というのはその二人で代表されたかと思われるような時代が、昭和十四年ごろにありました。・・・・

出典:立原道造に関する磯崎新との対談での発言。磯崎新編、建築の一九三〇年代 -系譜と脈絡、pp.42-44、鹿島出版会、1978年5月。生田勉、1912年(明治45年)生まれ。1939年東京大学建築学科卒業。東京大学名誉教授。

出典:画像出典・ライセンス詳細情報
桜井小太郎/丸ノ内ビルヂング Photo:PekePON/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Marunouchi_Building_1997.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
川元良一/旧九段会館 Photo:Wiiii/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kudan_Kaikan_2010.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
渡辺仁/旧東京帝室博物館本館 Photo:Wiiii/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tokyo_National_Museum,_Honkan_2010.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
グロピウス/バウハウス校舎 Photo:Mewes/Wikimedia Commons Public Domain https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bauhaus.JPG
コルビュジエ/サヴォア邸 Photo:Omar Omar/日本語Wikipedia Creative Commons Attribution 2.0 (CC BY 2.0) https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:サヴォア邸.jpg https://creativecommons.org/licenses/by/2.0/deed.ja
武田五一/京都市役所本庁舎 Photo:+-/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kyoto_City_Hall_Main_Building_20060117.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
岡田信一郎/明治生命保険相互会社本社本館 Photo:Wiiii/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Meiji_Yasuda_Life_Insurance_Company_Head_Office_2009.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
メンデルゾーン/アインシュタイン塔 Photo:Doris Antony/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Babelsberg_Einsteinturm.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
W.ヴァン・アレン/クライスラービル Photo:David Shankbone/Wikimedia Commons Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported (CC BY-SA 3.0) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chrysler_Building_by_David_Shankbone.jpg https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/
坂倉準三/パリ万国博覧会日本館 Photo:Unknown photographer(Sakakura Kenchiku Kenkyujo)/Wikimedia Commons 原典:David B. Stewart, The Making of a Modern Japanese Architecture, Kodansha Public Domain https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SAKAKURA-Paris-pavilion.jpg

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全国における吉田鉄郎の建築作品

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3-1.全国における吉田鉄郎の建築作品

吉田鉄郎は、著書『日本の建築』において日本建築における建築とそれを取り巻く環境との関係の重要性を、以下のように指摘している。

「日本建築の最も強い特性のひとつは、建築とそれを囲む自然との密接な結び付きである。建築は自然の中にそれと調和し、一体として融合するようにはめこまれる。・・・・日本建築は主として新鮮な素地のままの木材でつくられ、その建築は単純明快である。構造的な建築の骨格はかくされず、同時に美的な形態として使われる。装飾的要素および色彩はわずかである。それで材料の質感は完全にその効果を発揮し、建築の外も内も単純さと清潔さを反映している。・・・・・住宅は日本建築の主流であり、日本的な本性をもっとも明確に反映している。左右対称のような純形態的なものではなく、家の合目的性と機能が決定的なものである。

規格化は早くから実施され、建設過程の単純化と迅速性を目指した。しかしこのことの中には、日本人が制限された型の中でつつましく彼の個性を発揮するために、型に従うことがまた表現されている。建築家の小我はそれで制限され、日本の建築はあの落ち着いた、控えめな、倫理的な美しさを発展させることができたのであった。この日本建築の特性は、おそらく日本ばかりでなく、他の国々の新しい建築にも、道を示すことができるであろう。」

国際的なモダニズム建築の動きを熟知し、同時に日本建築の真髄にも精通していた吉田鉄郎は、外国の真似ではない日本独自の現代建築の姿を生み出した。それは建築を構成する基本要素である構造体の美を追求し、建築とそれを取り巻く環境の一体性を重視し、日本文化に固有の清純さを感じさせる意匠であった。そして、その日本建築の特性が、現代建築として国際的にも普遍性を有したものだと認識していた。

吉田鉄郎が他界する直前に原稿を纏め、死後出版された『スウェーデンの建築家』1)の後書きには、日本建築を現代の建築に継承する姿勢について、次の言葉がある。

「こころみに日本建築をみても、それは徹頭徹尾、経済的、合理的であり、かつ、きわめて近代的である。こういう建築を今日実現すれば、世界の人々は驚くであろう。もちろん、日本住宅は木造である。しかし、そこまでまねる必要は少しもない。芭蕉もいっているように、古人のあとをおわず、古人の求めたるところを、求めればよいであろう。次ぎにおこる問題は、こういうきりつめた建築において、はたして、美が表現されるかという問題である。

しかしそれは、すこしも案ずるに及ばない。わが国には古来、清らかさという特殊な美の概念があり、かつ、それはおそらく、きりつめたものに密接につながっているのだろう。

もっとも合理的な、もっとも経済的な、かつ、清らかな建築は、きわめて日本的である。・・・・・かかる建築が創造されれば、日本人の価値も、おのずから高められるであろう。」

吉田鉄郎は生涯の最期に述べている。

日本建築が具備する合理性と清純さは、世界に、歴史に、通用する普遍的な建築のつくり方につながると。古人のあとをおわず、古人の求めたるところを、求める。

1)吉田鉄郎、スウェーデンの建築家、1957年、彰国社

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現存する吉田鉄郎の建築作品

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4-1.旧馬場家牛込邸(重要文化財)(1928)

木造2階、1,067㎡。現在、最高裁判所の付属施設として使われており、公開されていない。馬場家は北陸の五大北前船主のひとつ。馬場家9代目・道久に嫁いだはる(1886~1971)は、37歳で未亡人となったが、海運業で得た資金を県に寄付し旧制富山高等学校の開校に尽くした。はるが子弟の教育のために牛込若宮町に建てたのが牛込邸である。当時、まだ学生だった10代目・正治は自ら木場に足を運んだと伝えられる。1930年に来日したリチャード・ノイトラがドイツ工作連盟の機関紙ディ・フォルムに日本住宅の代表として紹介している。

吉田鉄郎は生涯、非常に多くの建物の設計をしており、吉田鉄郎建築作品集には100棟以上の建物が彼の作品として整理されている。その約3割が木造建築である。吉田は若い頃から、鉄筋コンクリート造の庁舎建築の設計と並行して、木造建築を途切れることなく設計していた。

吉田は日本人の生活に根ざした日本住宅を日本建築の特性を示すものとしてとらえていた。吉田は、建築と環境との調和を日本建築の特色とし、構造体をそのまま美的表現として扱う木造建築の特性、その優れた生産システムがもたらす建築表現としての型、機能的合理性を持った日本の住宅の特質を指摘して、日本建築の特性が現代建築として普遍性を有したものだと認識していた1)

吉田の住宅作品は、特に奇をてらったものではなく、定石どおりと言ってもよく、欄間などの装飾的なものをそぎ落とす一方、生活面での近代化を目指したものとされる。作品の中でとりわけ規模が大きく、本格的な邸宅建築である馬場家牛込邸は、福野の山田正年が義妹馬場はるによる吉田の紹介がきっかけで、昭和2年5月に着工した。同年11月には東京中央郵便局にも着工しており、東京中央郵便局の無駄をそぎ落とした設計手法が、馬場家牛込邸の設計案に影響を与えていたと考えられる。馬場家牛込邸は個人的に依頼を受けた設計であるが、製図を担当した5名の内、廉川、沢、飯田の3名は、東京中央郵便局の製図担当者としても名を連ねている。昭和11年3月に着工し、14年3月に竣工した大阪中央郵便局の製図担当にも廉川、飯田の名前がある。沢寅吉にあっては吉田が逓信省を退官した後に手がけた、北陸銀行新潟支店(昭和25年着工)の製図と監督を担当しており、設計チーフの吉田鉄郎だけでなく、担当者にとっても日本住宅の設計と現代的な庁舎建築の設計が、密接に関係するものとして理解され、実践されていたのではないだろうか。

1)吉田鉄郎著、薬師寺厚訳、伊藤ていじ注解、建築家・吉田鉄郎の「日本の建築」、2003年10月、鹿島出版会SD選書238、の結語による。原著はJapanische Architektur、ドイツ、ヴァスムート社、1952年

4-2.旧馬場正治烏山別邸

昭和12(1937)年、世田谷の広大な敷地の中に、芝生に面して白いタイル張りの、モダニズム建築を象徴したような鉄筋コンクリート2階建ての住宅が建てられた。大阪中央郵便局が竣工したのが昭和14(1939)年であるから、ほぼ同時期に設計された建物であると言える。十分な天井高をとった伸びやかな室内空間は、福野郵便局の離れや、東京、大阪の中央郵便局と共通するものである。1階の居間は広々とした芝生に面し、また東側ではガラスに囲まれたサンルームにつながっており、開放的で光に満ちあふれている。2階にはベッドルームの他、小規模の落ち着いた洋間と和室が各1室ある。随所に建築化された造付けの収納や家具があり、その仕掛けが機知に富んでいて面白い。吉田の庁舎建築は完成度の高い設計を目指したため、ある意味、緊張感すら感じられるが、住宅の設計では、吉田らしい骨太の建築の構成美とともに、細部の意匠に住まう人を優しく思う設計者の人柄が感じられる。

吉田は馬場正治との縁で、馬場氏牛込邸のほか、馬場氏那須山荘(1928)、馬場氏烏山別邸、馬場氏熱海別邸(1940)と数多く設計した。はるが晩年、避寒のために過ごした熱海別邸は2006年に解体されたが、枡田隆一郎氏が馬場家本邸のある富山市岩瀬地区に再建することなどを検討されている。

1928年 旧馬場家牛込邸
1928 旧馬場家牛込邸 所蔵:NTTファシリティーズ
1937年 旧馬場正治烏山別邸
1937 旧馬場正治烏山別邸 所蔵:NTTファシリティーズ

その他の作品

  • 藤井能三銅像台座(1922)
  • 西方寺五島家墓所(1939)
  • 旧日向家熱海別邸地下室(1936、ブルーノ・タウトとの共作)国指定重要文化財・DOCOMOMO Japan登録
  • 馬場氏熱海別邸(1940、部材暫定保存)
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東京中央郵便局(KITTE丸の内)

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5-1.東京中央郵便局(KITTE丸の内)

吉田鉄郎は東京中央郵便局の設計について、次のように語っている。

「日本人の国民性の中の清らかさを求める心がある以上、経済的、合理的に追求し、かつ清らかさを求めた建築は、その美しさを持ちかつ日本的なのである。」1)

「鉄骨鉄筋コンクリート構造法を利用して 窓面積を出来るだけ大きくし、無意味な表面装飾を廃し、純白の壁面と純黒の枠をもった大窓との対照によりて、明快にして清楚な現代建築を求めることに苦心した。・・・・・必然的な建築要素によりて現代的な構成美を現出している。」2)

吉田鉄郎は、「逓信協会雑誌」において設計過程について、「東京中央郵便局は大正11年1月、仮庁舎焼失後、間もなく新庁舎の設計に着手されたが、翌年夏、設計の完成に近く、関東地方の大震災に遭遇して一頓挫を来し、一時設計を中止するのを止むなきに到った。震災後予算を新たにして再び設計案を作り、昭和2年の暮基礎工事を、同四年八月庁舎主体工事に着手し、引き続いて種々の付帯設備工事を完了して、昭和8年11月1日開局披露を行った。顧れば設計開始以来十年以上の歳月を経過し、その間数度に亘る予算の削減があり、また時代の推移に伴って、建築の平面および様式は幾度となく変更を繰り返した。」2)と述べている。

東京中央郵便局は完成当時から、国際的評価が高く、当時訪日した世界的建築家ブルーノ・タウトは、「日本で高い質を有する現代建築は、是が非でも日本的なものになろうと努めないからこそ、かえって優れた質を見せ、また真に日本的なものである。」3)と評価した。

吉田鉄郎の建築作品は、構造体自身による構成美とともに、軒の扱いについて日本建築の影響を受けていると考えられる。降雨量の多い日本の風土において、深い軒の出は建物の外壁を保護し、室内の居住性を高めるのに効果があるが、同時に意匠的にも非常に重要な要素となっている。吉田が設計した庁舎建築においては、パラペットの位置に設けられた小庇状の軒が、日本建築の深い軒がつくる緊張感に相当する効果を表現している。小庇の出の寸法や見附寸法は、作品ごとに色々工夫が繰り返されているが、いずれの作品においても小庇はシャープな水平線を形作り、外壁面を引き締めている。

1)向井覚、内田祥哉編「建築家・吉田鉄郎の手紙」鹿島出版会、1969年10月10日(内容は吉田鉄郎「スウェーデンの建築家」彰国社、1957年、あとがきからの要約)
2)吉田鉄郎「東京中央郵便局新庁舎」記事より、逓信建築雑誌、1933年11月掲載
3)向井覚、建築家吉田鉄郎とその周辺、昭和56年5月25日、相模書房。

5-2.静かに歴史を刻んできた東京中央郵便局

東京駅丸の内南口を出るとその真正面に東京中央郵便局、現在のKITTE丸の内がある。東京中央郵便局は郵政事業民営化に伴い再開発され、駅前に面した部分を保存しながら38階建ての超高層ビルJPタワーが2012年5月に完成した。丸の内といえば一丁ロンドンと言われた明治期から常に日本を代表するオフィス街である。再開発事業により東京駅に面したKITTEの入り口からアトリウムを通り抜けてオフィス街に直通する通路ができ、名実ともに丸の内の入り口として機能している。

東京駅の大きなドームの下を通り南口を出ると、東京中央郵便局の大きな壁面が目に入る。駅前広場に面した北側からJRの線路敷に面した北東側まで約160メートルの連続した立面が迫ってくる。建物の足元から5階の頂部まで百尺(31メートル)の高さの建物が、計算されたかのようにちょうど視野に収まって見える。白いタイルが前面に貼られた立面は、朝の光に照らされ、まぶしく輝いている。春分を過ぎる頃になると北面の柱型の“だき”(側面部)に朝日が差してリズミカルに光っている。わずかに凹凸がある壁面は太陽の光を受けて、季節により、時刻により、天候により、異なった表情を見せている。

東京中央郵便局庁舎の4階と5階の間と最上部には、東京駅前広場に面した壁面全体に渡って水平方向にコーニス(軒蛇腹)が延びており、壁面にシャープな陰影を与えている。この建物は日本の伝統木造建築に見られる柱と梁の構成による力強いデザインと、コーニスのような西洋建築の意匠をうまく組み合わせた日本独自のモダニズムの建築の嚆矢として、竣工直後に訪れた建築家ブルーノ・タウトらに高く評価されてきた。建物の設計を担当した逓信省営繕課の吉田鉄郎は、日本の美や建築の本質を「清楚」で「清らかな」ことであると述べている。この清楚な建物を見て、清々しい気持ちでオフィスに向かうのは、すこぶる気持ちが良い。

建物が設計されたのは、第一次世界大戦が終わった1920年代の戦間期と呼ばれる時期である。ヨーロッパでは19世紀までの様式建築とは異なる合理的、機能的なモダニズム建築が、鉄、コンクリート、ガラスなどの技術革新により生まれつつあった。わが国では関東大震災(1923年)が発生し、その復旧・復興事業のため困窮を極めた厳しい時代であった。その状況の中で日本の建築界の若い建築家たちは、いち早く国際的な建築の動向を学び、新しい時代に相応しい建築の在り方を模索した。吉田鉄郎もその一人だ。

丸の内二丁目のこの場所は、戦前戦後の日本の近代化の歴史を刻んだ場所である。戦中には東京中央郵便局の公衆室(窓口ロビー)から家族の安否を伝える辛い思いの郵便や電信が発出された。この場所の地霊には困難を乗り越えて発展を続けてきた日本の歴史とそれを支えた人々の思いが宿っている。

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PANEL 6

富山県南砺市の吉田鉄郎建築

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6-1.富山県南砺市の吉田鉄郎建築

吉田の生誕地、南砺市福野には吉田が設計した建物がいくつか現存している。福野の山田家や五島家(吉田は大学卒業後に吉田家の養嗣子となった。山田家と五島家・吉田家は親戚)などの有力者は福野の地域文化を担い、交流を深めてきた。

吉田の最初の作品とされる授眼蔵佛教図書館は大正8(1919)年に完成した。宮大工佐々木の設計図に、大正7 (1918) 年まだ学生だった吉田が手を加えた。玄関前のエンタシスの柱や頂部が平らな窓などおおらかなデザインである。その時、棟梁・佐々木嘉平(4代目)との知己を得たことは、吉田が日本の伝統建築に精通することにつながる良い契機となった。

父(5代目)、兄(6代目)の五島寛平が郵便局長を務めた福野郵便局とその住居部分は大正12(1923)年に完成している(住宅部分は五島氏離れとして曳家され残っている)。昭和3(1928)年には近隣の城端郵便局も竣工し(現存せず、局長の篠井家は山田家の親戚、青焼図面が残る)、昭和4(1929)年に山田家住宅洋館が完成する。

洋館が竣工したのは、吉田の代表作である東京中央郵便局が完成する2年前であり、ほぼ同じ時期に設計された。1920年代は世界的にも様式建築から離脱し、合理的なモダニズム建築が模索された時代である。二つの建物は、規模は大きく異なるが、吉田が大学を卒業して逓信省に入省してから東京中央郵便局の設計案がほぼまとまるまで、すなわち吉田が自分自身の建築の目標を模索していた時期に設計された作品として、重要な位置を占めている。

東京中央郵便局は、純白の壁面と黒色の窓枠、日本の伝統建築を感じさせる柱と梁の架構が構成する清楚なデザインである。一方、福野郵便局、城端郵便局、山田家住宅洋館は、外観は黒い下見板張りの大壁であり、白く塗られた太い枠周りの窓が印象的だ。吉田は東京中央郵便局と福野の山田家住宅洋館を対比して、あたかも「対」の建物のように設計を進めていたのではないだろうか。

6-2.福野郵便局の五島家の離れ

吉田は逓信省に就職して、間もないころ、実家の福野郵便局舎の設計を行っている(改築落成は大正12(1923)年11月1))。旧福野郵便局は木造2階の小規模な郵便局である。局舎建て替えの時は、長兄の寛平が郵便局長であった。

吉田の逓信省における初期の作品、京都七条郵便局(大正11(1922)年竣工)や京都中央電話局新上分局(大正13(1924)年竣工)は、ドイツ、ハンブルグ派のシューマッヘルの影響を受けたものとされるが2)、同時期に設計を手がけていた実家の福野郵便局庁舎は、モダニズムの住宅建築の特色を試みたような、大きな開口部を持つ作品となっている。吉田は世界的に起こりつつある近代建築の動きに精通していたとされ、その研究成果をまず、実家の設計において実践したのであろうか。

逓信省では大正11(1922)年1月に東京中央郵便局の仮庁舎が焼失したため、本庁舎の計画が進められていた。しかし関東大震災が発生したため、当初の設計案は大幅な見直しが必要となった。震災後、吉田は東京中央郵便局の設計に本格的に取り組むことになるが、その直前に福野郵便局を設計していたことになる。

平成20(2008)年5月19日に放送された富山テレビの特集番組「平凡なるもの 建築家吉田鉄郎物語」は、福野郵便局の住宅部分である五島氏離れの建物への自然光を取り入れた設計を、東京中央郵便局の開放的な建具のデザインに連続するものとして注目している。実際、東京中央郵便局の設計室が逓信省営繕課に設けられたのは大正11(1922)年であり、福野郵便局、五島氏離れで試みられたことが、東京中央郵便局の設計に影響を与えた可能性がある。

吉田による福野郵便局舎は郵便局としての使命を終えた後、生命保険会社の事務所として使われていたが、既に現存しない。ただ、郵便局の離れとして設けられた住宅部分が、隣家に曳家され、ほぼ建設当時の姿のまま、大切に住み続けられ、現在はシェアハウスとして利用されている。2階の座敷は天井が高く、欄間に明かり取りが設けられていて室内が明るい。雪国、富山の天候を意識した設計であり、大きな開口部を持つ東京中央郵便局の設計とのつながりを感じる3)

富山県立福野高等学校(旧・農学校)には国指定重要文化財の「巌浄閣」が保存されているが、玄関ホール部分の壁に、若き吉田が描いた農学校の鳥瞰図が掲げられている。福野農学校は創立40周年記念事業として、卒業生と山田正年らの寄付による「農業博物館」および山田正年の篤志寄贈による「報徳会館」を昭和10(1935)年に完成させたが、その図面が保管されている。逓信省の木造庁舎を彷彿とさせるこの建物の設計図には吉田のサインがある。

1)斉藤五郎平、福野の史料、1978
2)向井覚、建築家吉田鉄郎とその周辺、1981年5月25日、相模書房
3)南一誠、INAX REPORT No.178、2009年4月、株式会社INAXトステム・ホールディングス

1923年 福野郵便局および五島氏離れ
1923 福野郵便局および五島氏離れ 所蔵:NTTファシリティーズ
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富山県南砺市の吉田鉄郎建築

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7-1.富山県南砺市の吉田鉄郎建築

山田家住宅の洋館は、周りの既存の建築を強く意識し吉田が設計した。洋館設計当時の山田家住宅の屋敷地は、西の上町通に面して上手座敷と下手に商いの空間と生活空間をもつ本屋があり、南の新町通に面して蔵が配され、東の広大な敷地内に清酒詩百篇の酒造場があった。この中心に、本屋からつながる離れの洋館が設置された。詩百篇の主、山田家8代正年の嫡子正廣の創作活動・療養のためである。吉田は詩百篇で始まり終わる洋館竣工写真集(昭和4(1929)年6月①~⑱)を大事に保管していた。光溢れる写真集に従い洋館を巡ると、他の吉田の住宅にはない山田家住宅の洋館の特色が4点浮かび上がる。最重要な作業場、中庭に直面し酒造場を管轄する洋館配置(②③)。土蔵(周りの建物)と直結し、正廣の作品を実質的に同じ建屋内で洋館へ動かす渡り廊下(②)。緩やかなバリアフリーの、吹抜の階段(⑪⑫)。絵画制作の場所「画室」(⑬)や、吉田の兄五島健三の絵画がかかる白壁などの絵画への意識。吉田らしく目的や機能が明確である。

吉田は住宅設計をライフワークとし、所有者に寄り添って多様な住宅を設計した。なかでも非常に特色のある洋館。物品の移動や開放感、周囲の建物などは東京中央郵便局とも通じる。また、弱者への優しさや兄弟愛。今、文化財としてのこる洋館他3建築で、吉田の合理性さらに人を知る。

洋館には、吉田の認めた古写真、豊富な記録や周りの建物、大家の洋画や山田家にあわせた調度品などが多くのこる。山田家と吉田の意図が100年を経た今も辿れ、現在活発に研究されている唯一の吉田建築である。

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PANEL 8

旧京都中央電話局上分局

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廃局後、京都電信電話会館、電気通信技術史料館として使用。1988年以後はレストラン・スポーツクラブ等に転用している。国登録有形文化財。

旧京都中央電話局上分局 東側立面図
旧京都中央電話局上分局 東側立面図 所蔵:NTTファシリティーズ
旧京都中央電話局上分局 各部詳細図
旧京都中央電話局上分局 各部詳細図 所蔵:NTTファシリティーズ
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PANEL 9

旧京都中央電話局(現 新風館)

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2001年に複合商業施設として改装され、2020年にはホテル、映画館、店舗からなる複合施設として生まれ変わった。京都市登録有形文化財。

旧京都中央電話局(現 新風館) 正面詳細図
旧京都中央電話局(現 新風館) 正面詳細図 所蔵:NTTファシリティーズ
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PANEL 10

東京中央郵便局(現 KITTE丸の内)

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(該当図面は、web上では公開できませんが、会場では展示しています。)

矩計図、正面及中庭側矩計図 所蔵:文化庁国立近現代建築資料館

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